ふと思い出す瞬間がある。
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子どもの頃、押し入れの中に入って遊ぶのが好きだった。
長崎市の南部にある大企業の社宅の一室。よくある「団地の和室」という感じで、ある部屋では壁一面に押し入れがあった。4畳半の長辺いっぱいにわたる、ふすま4枚分の押し入れ。子どもの頃の自分にとっては、とても大きな空間に思えたものだ。
そのときは家族3人とも布団で寝ていて、毎日そこに布団を上げ下げしてるから、昼間は天井までぎっちり布団が入っている。でも、たまに布団を干すときは、昼間なのに押し入れが空っぽになっていることがあった。
そういうときに、押し入れの中に入って過ごす時間がとても好きだった。何をするでもなく、ただ出たり入ったり、上段の棚の上に立って背が高い人をイメージしたりして。今の身長でそんなことしたら、当然ながら頭が天井につっかえるけど、当時はその「高さ」に刺激を覚えた。
そして、その棚から飛び降りる。ちょっと怖かったけれど、「棚の上の足と床の畳との距離はせいぜい1mもない。それに自分の身長を加えたところに目があるから、恐く思えるのは錯覚なんだ」とか思いながら、飛び降りていた記憶がある。小学校3年生とか4年生とかかな。
さっき、ふとそんなことを思い出した。
あんなにワクワクした瞬間はよかったなと。今ではそんな思いをすることはあるのだろうか? そして、自分の子供が生まれたとして、その子はこの家でそんなにワクワクする瞬間を体験することができるのだろうか?
新しめの分譲マンションだから、そのような「小さな冒険」を成し遂げる余地はあまりないだろうか。僕の場合は古めの団地だったからこそ、家の作りにある程度の粗さがあり、そんなことができた。でも、最近の規格化が進んだマンションだと、そんな余地、なくない?
まあ、そんな体験が今の何かに繋がっているわけじゃないけれど、幼少期の「原風景」として、そのような冒険はよかったなと。そんな冒険、仮に自分に子供が生まれたら、安全性が重視される現代の日本社会で、そして冒険できる余地があまりなさそうな首都圏で、何をさせてあげられるだろうか?
どのように育っても、個々人でそのような原風景は自ずと形作られるものだから、あまり気にしなくていいのかもしれない。そして、たかだかそのような風景ひとつで人生が変わるものでもない。まして、大事な進路選択に直接影響するものでもない。
でも、昔を思い出したときに「ああ、あの経験はよかったな」とか「懐かしいな」と思えること自体が、人生に何らかの影響を及ぼしているのではないか。そう考えることだってできるかもしれない。
だとすると、小さな小さな体験のひとつひとつ、親から言われた何気ない一言、家で出てきた美味しい料理、そんなものたちが少しずつ積み重なって、子どもの価値観や人生観を作っていくものなんじゃないか?
そうだとすると、押し入れに篭っていた体験とか、そのときの匂いとか、押し入れの中で観察したベニヤ板の突き合わせ部分とか、釘の打ち方とか、そうやって小さく小さく観察していたことが、その後の審美眼や洞察力に繋がってくるのかもしれない。
それがもし、もともと備わっている能力だとしたら、ちょっと大袈裟かもしれない。けれども、何が子どもにとってブレイクスルーになるか分からない。自分の能力に気づくきっかけになるかもしれない。だから、できるだけ多くの冒険をさせてあげた方がいいんじゃないだろうか。
それが、家の中で足りないのであれば、どこかに連れていく。自然が多い場所、川遊びができる渓谷、森の中でキノコの観察、あるいは都会のキッザニア、美術館や博物館、はたまたディズニーランド? いろんな場所でいろんな経験ができると思う。
親の視野の狭さが子どもの限界にならないように、まずは自分の視野を最大限広げてみるところから始めないといけないのかもしれないな。その結果として、自分よりも大きな視野を、そして高い視座を持ってもらえればいい。
それが、親から子に与えられる「宝物」のひとつ、なのかもしれない。この年になって、自分の親からたくさんの宝物を与えてもらっていたことに気づく。両親はまだまだ元気だから、これからもたくさん親孝行しないといけないね。
そういえば、9月のシルバーウィークには、車で長崎に帰るのもいい。横浜から何を持っていこうか、長崎で何をしてやろうか。こうやって考えることが、子どもから親に返せる「宝物」なのかもしれない。