バランスが大事、という結論に達しました。
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1か月ほど前から、「iPhoneのホーム画面を整理してTwitter (X) アプリを見えなくする」という試みを行っていました。
ホーム画面の1ページ目に配置したアイコンが目についたら、つい起動してしまう。だったら、目にする機会を強制的に減らすことで、時間を溶かすこともなくなるのでは?という仮説を立てて、自分の中で実証していたのです。
この取り組みを始めたときの決意表明のような記事。1か月前に書いたものです。
視界に入るというのは、「意識づけ」という観点において絶大な効果があります。
だって、アプリを使った後でホーム画面に戻り、次に何しようかな?と考えたと同時に、脊髄反射のようにTwitterを起動する。こんな繰り返しを断ち切るためには、ホーム画面から消し去るというパワープレイに出るしかないでしょう?
その結果、Twitterとの向き合い方や発信の仕方がどのように変わっていったのか。この記事で知見を共有したいと思います。
Twitterをホーム画面から外してみた
iPhoneのホーム画面からTwitterを消しました。
別にアカウントを削除したわけでも、アプリ自体をアンインストールしたわけでもありません。ただ、ホーム画面を整理整頓する一環で、ホーム画面上にTwitterアプリを置かないようにしただけです。その気になればAppライブラリから普通に起動できます。
でもそれだけで、不思議なほどTwitterとの距離が生まれたんですよ。あれだけ中毒のように起動していたアプリだったのに、ひとたび視界に入れなくしただけで、その存在自体が忘れ去られてしまいます。それくらい、いつも目にするホーム画面の1ページ目というのは、ある種のサブリミナル効果があるようです。
そもそものきっかけは、延々と流れてくるタイムラインを眺めて、やめ時も分からずに次から次へと無駄な情報を摂取している状態に対して、嫌気が差したこと。文字どおり「時間が溶けてるな」と感じていました。スクロールしてるうちに、気づけば30分、1時間経ってることもあって、そういう時間の使い方を見直そうと。
ホーム画面にあると、無意識にタップしてしまう。何かを待っている時間や、ちょっとしたスキマ時間に、反射的に開いてしまう。何も生み出さないまま、情報の波に身を任せてしまう。疲れてもないのに、なぜか疲れる。そんな状態をどうにかしたくて、まずは入口を遮断することにしました。
でも、この小さな実験が思わぬ気づきを運んでくることになったのです。
よかったこと:新しい記事が生まれた
この取り組みから得た一番大きな成果は、「iPhoneのホーム画面は1ページがいい」という記事を書けたこと。noteで猛烈に読まれたし(ほんとに、驚くほど読まれた!)、自分の中でも心の底からやってよかったと思える実践でした。
記事を書いているときから高い熱量で書いていたので、その温度感が読者のみなさんにも伝わったのだと思います。現時点でnoteでは700スキに迫る勢いで、こんなに共感を集めたことはありません。それくらい、僕個人としての発信活動における事件になったんです。
アプリの配置を工夫することで、日常の選択が変わる。それを体感として捉えられたのは、Twitterを見えない場所に追いやったからこそ得られた視点でした。だから、このような取り組みをやってよかった。
iPhoneのホーム画面を1ページで運用し始めて約5年。ここに来て初めてアプリの配置を見直してみたので、それを記事にしました。
▶ iPhoneのホーム画面は1ページでいい。むしろ、それがいい。
意外な副作用:言葉が出てこなくなった
一方で、いいことばかりではなかった、ということに気づいている自分もいて。Twitterを頻繁に開かないという生活を1か月続けた結果、なぜか、発信する言葉が出てこないんですよ。
それはTwitterに投稿する内容だけじゃなくて、ブログを通して発信するを考えているときも、頭のどこかに靄がかかっている感じ。これだ!という閃きもなかなか生まれないし、思考をめぐらせて精緻化することもままならない。この1か月、ずっとそんな気がしていました。
もちろん、仕事で頭を使うときに関しては影響は全くありません。でも、ブログやnoteでの発信となると、なんだか全然アイデアが湧いてこないし、発信する・しないというバランス感覚が徐々に失われていく感覚がありました。
その原因はおそらく2つ。ひとつは、日常の気づきをアウトプットする習慣がなくなっていったこと。そしてもうひとつは、だんだん孤独になっているように感じてしまうこと。
前者について。正直、僕は以前から多くツイートするような人ではありませんでした。でも、日常の中でふと感じたことを、投稿するような場面もあって。
そのおかげで、Twitterだけでなく、Ulyssesに記録している自分用の「思考のメモ帳」にも何か書かないと!という意識づけになっていた。ツイートしなくなった結果、自分用のメモ帳に書く習慣すらも下火になっていきました。
そして後者については、ある意味当然です。自分からTwitterとの距離を取る選択をしたので、その分まわりからの反応が薄くなるのは必至。だからみんなの反応を考えて言葉を紡ぎ出すという行為そのものが、知らない間にどんどん遠ざかっていってしまっていました。
その結果、いざツイートしてみようとアプリを開いても、「あれ、何を書こうとしてたんだっけ?」「どんなことをどんな温度感で書けばいいんだっけ?」と手が止まってしまう。そんな風に、言葉の芽が消えてしまう感覚を抱くようになりました。
正直、これは当初は意図していなかった負の影響です。規模は小さいながらも発信している身としては、全く無視できない、あまりに大きな影響でした。だから、Twitterと距離を置くことを、そろそろやめようと思います。
「余白」は無駄じゃなかった
意外だったのは、タイムラインをぼーっと眺めている時間が、思っていたほど無駄じゃなかったこと。
確かに、自分にと関係のない投稿やノイズも多い。でも、それに混じって、自分の思考を刺激してくれる言葉や話題もあった。誰かの何気ない一言が、記事の着想につながることも、もちろんある。
あの「何も考えてないけど流れを眺めてる時間」が、実は大事な「余白」だったのかもしれないなと。その余白があったからこそ、言葉が自然に浮かび上がっていたんだ。一旦Twitterから離れたことによって、強く思えるようになりました。
だからこそ、完全に断ち切るのではなく、「どう付き合うか?」を考えることが大事なんだと実感しています。たしかに、情報の洪水から離れると静けさが戻る。でも、同時に思考の材料も減る。Twitterを見なければ集中できる。でも、Twitterを見なければ、発信を継続するためのエネルギーを吸収できない。
このバランスをどう取るか。 今、ようやくその問いに向き合えているのかもしれません。
駆け抜けるばかりじゃ、視野は狭くなる
Twitterをホーム画面から外して1か月。僕は発信するのに必要な「余白」を犠牲にして、無理矢理時間を捻出していたみたいです。それは全くヘルシーじゃない。
人生は、いつも効率よく前に進むだけでは見えない景色がある。立ち止まったり、ぼんやりしたり、流されたり──そんな時間のなかに、言葉の種や、自分らしさが宿っていることもある。
見たくもない言葉に心を乱されるより、自分の内側から出てくる言葉をじっくり育てていきたい。そう思ってTwitterから遠ざかってみたけれど、実際は逆だった。みんなが発信している場に自分の考えを持って向き合うからこそ、ブログやnoteという「置いておける場所」に対して言葉が出てくる。
だから、一見無駄に思える行動であっても、実は「余白」を生み出すために大事なものであり、回り回って自分に返ってくる。今後はそういうポジティブなサイクルを回したい。今はそう思っています。
Twitterから離れた1か月間。それがいい影響を及ぼしたこともあれば、無視できない副作用もありました。このあたりのバランスを取りながら、僕は今後もTwitterと向き合っていきたい。