セーブポイントとなるものを。
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早くも12月の前半が終わり。2025年も本格的に終盤に近づいています。
「あまりにも早すぎる」「今年も一瞬だったな」
仕事も猛烈にしていたし、それなりに遠出もしたし、日常生活も充実していたし、写真もたくさん撮ったし、文章も書いてきた。それなりに中身のある1年だったはずなのに、振り返ってみると手応えが薄い。気を抜くと、「一瞬だった」という言葉で、全部まとめて片付けてしまいそうになります。
でも、ふと気づきました。この感想、今年に限った話じゃないぞ。
2024年の年末にも、同じことを思っていました。今年と同じ気持ちだったことを明確に覚えています。そして、2023年の年末にも、同じような感覚があった気がする。
つまりこれは、「今年が特別忙しかったから」でも、「印象的な出来事が少なかったから」でもない。2023年も2024年も今年と同じくらい忙しかったはずだから、忙しさに差はないはず。
だから、もしかしたら、もっと構造的な違和感なのかもしれないなと。しかも毎年、同じ地点で顔を出してくるから、余計にね。このあたりから、少し怖くなってきた。
この怖さの根源を辿ってみたい。問いは、「なぜ一瞬で時間が過ぎていくと、怖いと感じるのか?」だろうか。
時間が過ぎていくのは当然だから、そこに疑問を抱くつもりはありません。しかし、その時間の感じ方は自分の取り組み次第で制御できるはずであって、同じ時間を過ごすのなら、より長く感じられた方がお得です。こうやって少し貧乏性な性格が根底にあります。
そして、早く感じるとなぜ怖いのか。答えはきっと問いの延長線上にあるわけではなくて、「仮にこれからの未来の時間も、一瞬で過ぎていった時間と同じスピードで過ぎていくとしたら、一瞬で老いを迎え、死んでいくことへの恐怖」なのだろうね。
こんなに早く過ぎ去ってしまうのなら、それまでの間に何ができるのか? 何もやり遂げられない気がする。そんな人生はとてももったいない。何かを残した実感を得ることなく死んでいってしまう。それは避けなければならない。
人生の時間は有限であり、パワフルに動き回る体力がある期間はもっと短い。そのリソースをどのように割り振り、どのようなものを生み出し、何を残していくのか。人間として生まれてきた以上、社会の中で生きていかなければならない。その社会の中で役に立つ存在になりたい。
そのようなことを成し遂げるために、これからの未来が一瞬で過ぎ去ってしまうと困る。そういう話なのです。
一方で、これまでの人生を振り返ってみても、この先の未来が一瞬だということが手に取るように分かってしまう。だから自分に残された時間は、思っている以上に少ないのかもしれない。あと30年働くとしても、その30年はこれまでの人生よりも短い。
5年前のできことを思い出そうとすると、情景ごと映像で浮かんでくる。どこにいて、何を考えていて、どんな空気だったかまで、正確に再生できる。写真や動画として残っていると尚更で、かなり細かいところの記憶まで呼び寄せられる。
大学生の頃の記憶だって、断片じゃなく、1本の場面として残っている。なのに、それが「15年前」だという数字で突きつけられる。記憶の手触りと暦の数字が、どうにも噛み合わない。
ここまでの15年が一瞬だったのだから、これからの15年も、その先の15年も一瞬で過ぎ去ってしまうに違いない。そうすると30年だ。老後に突入。そんなに短い時間で、果たして何ができるのだろう?
これまで、時間に対して何もしてこなかったわけではありません。むしろ逆で、かなり意識的に抵抗してきたつもりでした。
ブログを書き始めたのも、その一環だったと思います。日常の出来事を、言葉にして残す。何でもない一日を、そのまま流さずに、一度立ち止まって言語化する。
当初の目的は、単なる記録や思考整理くらいのつもりだったし、なんなら今でもそう思っています。でも、書き続けて10年が経った今、そこに別の意味を与えると、「時間に歯止めをかける儀式」だったんじゃないかと思えてきたんです。
僕は日常的に考えたことや体験したことを、文字という形でアウトプットして、WordPressやnoteの上に固定しています。これにより、少なくとも、「惰性で時間が流れていき、振り返ると何も残らなかった」という事態を回避できているような気がしています。
しかし、めまぐるしく動き回る日々の中で生きていると、記録のペースが追いつかないのか、時間の圧縮率が年々上がっているような感覚があるんです。仕事も忙しいし、日常生活もハイペースで生きている。そうなると、以前と同じペースで記録したところで、密度は下がる。
だからこそ、あえて記憶の中に強烈なイメージを焼き付けることで、大きな痕跡を残すことができると、後で振り返りやすいのではないか。このような仮説に辿り着きました。
でもそれって、「節目」「式典」「思い出」みたいなもので、一般的な感覚なんじゃないだろうか。卒業式をやったからこそ、卒業したんだという意識が芽生え、同時にその記憶が脳裏に焼き付き、後で振り返るときのセーブポイントとなる。こんなの一般的すぎるよ。
でも、僕はそのようなことを軽視してきた。だからここに気づくまでに、ひどく遠回りしてしまったみたいです。
なぜ軽視していたのか。理由はシンプルで、日常生活に影響を与えないからでした。式典をやってもやらなくても、日々の生活は変わらない。だから意味がない。そう思っていたんです。どうしてこのような考えに至ったかは分からないけれど、たぶん人格形成の過程での周辺環境とか、そのあたりを含むのだと思います。
もちろん、学校で強制的にやらされている式典もあったし、結婚式のようにいろいろな目的を持った式典も多くあります。でも、式典という習わし自体に着目してみると、記憶の中に痕跡を与えて風化させないという、先人たちの知恵が集まったものなのかもしれないなと。
そう考えてみると、侮って疎かにするのはナンセンスだったなと、今なら思います。
たとえば自分の結婚式は、妻からの要望もあって軽井沢で家族だけの小さなものをやったけど、とてもよかったんですよね。
当時は、妻や家族への感謝を伝えるとか、一生に一度しかできない(はずの)特別な経験だったりとか、いろんな理由がありました。けれども、3年が経った今の時点で振り返ってみると、「結婚した」というライフイベントを振り返るためのセーブポイントとして、大きな意味を持っているように思うのです。
そういうものを積み重ねていくことで、我々は「人生を前に進めている」という実感を持って、いくつかのセーブポイントを作り、後で振り返るのではないか。そして、そのように振り返るポイントの多さをもって、時間の経過を認識するのではないか。
そんなことに、今さら気づいたのです。
とはいえ、日常のルーティーンになったブログやnoteを、今さらやめることはありません。確かに、遠回りする過程にあったことは事実だけれども、今となっては自分を構成する大事な要素のひとつになっています。だから、これを取っ払ってしまうと、心が削られたような感覚になるに違いありません。
また、日常の記録という儀式と、ライフイベントにおける大きな痕跡は、十分両立し得るものだし、相互に補完し合ってより強い記憶になるのだと信じています。
そう考えると、年末に感じる怖さの正体も、少し見えてきます。
時間が早いのではなく、折り目のない日々が、あとから一気に畳まれている。新しいできごとが減り、判断は速くなり、起伏の少ない日常が滑らかに繋がっていく。そのまま通過した時間は、振り返ったときに驚くほど短く感じられる。
年末は、その圧縮結果をまとめて突きつけられる季節なんでしょうね。だから毎年、同じ場所で、同じ違和感に出会うのです。
では、これからどうすればいいのか? 来年は、時間の経過を早く感じないように、何ができるのだろうか? そう問い直してみるけれど、明確な答えはまだ出ていません。
ただ、ひとつだけ分かったことがあるんです。時間を「遅くする」ことはできなくても、振り返れる場所を増やすことはできそうだ、ということ。
日常の記録という小さな儀式と、人生の節目に残る大きな痕跡。その両方があって、初めて時間は地形となって認識できる。その地形に刻む折り目のひとつひとつを、もう少し意識して生きてみたい。仮に大きな痕跡がない年であっても、日常を記録することで小さな折り目を重ねる。
来年も、そうやって生きてみようかなと思っています。もちろん今までもそうだったんだけど、少し見方を変えるというか。やることは変わらないけど、それに向き合うスタンスを、ちょっとだけ改めてみる。
完璧じゃなくていいし、うまくできなくてもいい。また来年の年末に怖くなる前提でもいい。やってみないと分からないから、やってみるだけ。
それでも、時間が早すぎるのが怖いという感覚自体は、たぶん消えないでしょう。でも、何が怖くて、どのように対処すればいいか、なんとなく分かった今なら、少し違う距離感で来年を始められそうな気がしています。
そうすれば、今年の終わりも「一瞬で終わって怖い」ではなく、もう少し穏やかに迎えられそうです。








