撮りたいけど撮れない。そんなジレンマ。
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僕は写真を撮るのが好きだ。というのは、このブログやnoteをお読みいただいている皆さんなら、なんとなく分かっていただけるのではないでしょうか。
毎日でも撮りたい。いろんな風景を目にして、心に動いた瞬間をカメラで記録したい。そのシャッターフィールに触れて、感情や空気感までも写真の中に閉じ込めたい。そんな思いは確実にあるのです。
しかし、普段はあまり撮らない。というか撮る機会がない。そのジレンマにもやもやしている。今年はそんな1年だったように思います。
それはなぜだろう?
直接的な原因は、あまり外に出ないことです。外に出れば被写体は無限に存在していて、機材、天気、時間帯、切り口など、いろんな要素を組み合わせて、さまざまな表現ができる。それはとても楽しいことであり、写真を撮るのが好きな感情のコアな部分はここにあります。
とはいえ、普段はあんまり外に出ないんだよなあ。会社に勤める一般的な社会人として、外出する機会の最たるものは「通勤」のはず。でも、最近はほとんど在宅勤務で働いていて、出社するのは月2〜3回なんですよ。
そうなると、平日のほとんどを家に篭もって仕事をし、その後にブログ・noteの執筆に費やすわけで、わざわざ外出して写真を撮るタイミングがない。そんな状態で敢えて外出する気力もないし、犬も散歩が好きじゃない。
また、たとえ月に数回の出社であっても、通勤時に写真を撮るという選択肢もあるにはある。でもこれ、選択肢止まりなんですよね。たぶん心の底で「同じ道の往復でしかないのに、写真撮ってどうするの?」と思ってるんだろうね。
そんな思いを押さえつけて、写真を撮るんだという意思のもとで日常の通勤風景を眺めると、たぶんいろんなものが見えてくるんですよ。それは分かっている。でもやらない。なぜだ?
ひとつ思いつくのは、僕の性格として、目的外のことをやりたくないのだろうなと。つまり、通勤とは自宅と会社の間の往復移動が目的であり、それ以外は目的ではない。子どもの頃から通学中の寄り道が大嫌いだったし、その性質は大人になっても変わらない。
だから、自宅から真っ直ぐ会社に行き、会社から真っ直ぐ家に帰る。そこに余計なノイズを紛れ込ませたくない。このような考えが、おそらく根底にあります。
写真を撮るためには、そういう「目」で風景を観察する必要がある。そうすると、通勤という目的から外れた動きをすることになり、自分の中で整合性が取れない。きっとこういう感じです。
だから、写真を撮るのが好きなのに、通勤中に写真を撮ることに対して、なんだか違和感がある。
一方、休日は車で遠出するのが好きで、そういうときはよく写真を撮ります。遠出したついでに写真を撮っているというか、写真を撮るために遠出しているというか、どっちが目的か自分の中でもはっきりしていません。
こんな状況なので、日常の風景の写真はあまりなく、遠出したときの写真ばかりカメラロールに溜まっていくんです。もちろん家の中では撮るから、そういう意味では日常の写真はあるんだけど、街の風景とか、季節を感じられる日常の写真は少ない。
だから、もっと日常の一枚となるような、平凡を極めた写真を撮りたいんです。そのためにはどうすればいいんだろう?
写真は撮りたい、でも移動という目的を持った通勤時に撮ることには違和感がある。となると、仕事を辞めて街をふらつくとか、曜日や場所に縛られないフリーランスになるとか、そういう話になってくるのだろうか…?
でも、問題はそこじゃない気がするし、そんな結論になったところで現実的ではない。生き方の話にまで広げるようなものじゃなくて、ただ日常の時間の中に心の余裕があればいい。意識的に余白のある時間を作ればいいんじゃないかな。
たとえば、会社から真っ直ぐ家に帰るのではなくて、駅前のスタバでゆっくりしてから家に向かうとか。そうすると、一旦心を落ち着かせた状態で、近所を歩くことになる。また違った景色も見えてくるだろう。
さらに、いつもと違う道を通って家まで帰れば、それはもはや非日常であり、写真を撮るには十分すぎる動機が生まれるかもしれない。経験上、そういうときって心が動く風景に出会えるものなんだよね。
ああ、こうやって考えているうちに、なんだか試してみたくなってきた。今度出社したときは、帰りにやってみよう。








