「進学してよかったか?」を振り返ります。
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博士課程の費用対効果を7年後に考え直す
博士の学位を取得して、まもなく7年が経過します。それは同時に、社会人になってから7年が経つという意味でもあります。
過去の自分の選択は取り消すことができません。それは博士課程への進学という大きなトピックだけでなく、大小さまざまな選択の上に我々の人生は乗っかっています。
人は「自分の選択はよかった」と思いたいものです。だからこそ、これまでいろんな振り返りの記事を書いてきたけれど、「進学してよかった」という結論ありきだったのではないか?——と疑うことも大事。
ここで言う「費用対効果」は、金額の話ではありません。
人生の「時間」を使った投資が、今の自分にどう残っているか。4年間という時間を博士課程に捧げることで、その後の人生におけるベースラインを上げる取り組みだったのです。
そう思って進学したけれども、学位取得から7年が経った今、いろいろな観点から「本当に進学してよかったのか?」という評価をやっていこうと思います。
なお、この文章は、既に博士課程を終えた人だけでなく、これから進学を検討している人にも向けて書いています。ひとつの事例として参考にしていただければ。
僕の略歴
まずは、評価の前提となる僕の略歴を簡単に書いておきます。あんまり目立つものはないけど…
- 長崎県出身
- 2015 / 長崎大学 薬学部 薬学科(6年制)を卒業
- 2015 / 同大学大学院 医歯薬学総合研究科 医療科学専攻 博士課程に進学
- 薬物送達システム(DDS)をテーマに研究に従事
- 超音波応答性DDSの方法と評価に関する研究
- 筆頭著者論文あり(国際誌掲載)
- 2019 / 博士(薬学)を取得
- 2019 / 博士課程修了後、医薬品医療機器総合機構(PMDA)に就職
- 新薬審査部門にて審査業務・治験相談対応を担当
- 2021 / その後、医療IT企業に転職
- 医療×IT領域の新規事業開発、プロダクトマネジメントに従事
- 現在はマネージャーとして、組織運営をしながら既存プロダクトを運用し、新規プロダクトの立ち上げにも関わっている
- 個人ブログ「starnote*」を10年以上継続して運営
- 暮らし、仕事、思考整理、ガジェット、キャリアなどをテーマに執筆
こうして書き出してみると、いわゆる「分かりやすい成功例」ではないと思います。博士号を取って、華々しくキャリアが開けたわけでもなければ、研究者として第一線に残ったわけでもない。
ただ、研究、制度、事業といういくつかの立場を経て、時間だけはそれなりに経ちました。だからこそ今回は、「博士課程が正しかったか」を断定するのではなく、この選択がその後の人生にどう作用してきたのかを、後出しで点検してみたいと思います。
博士課程に進学してよかったか? 6つの評価軸
どのように評価したらいい?とChatGPTに聞いてみたところ、6つの評価軸を提示してくれました。
- 思考のOSは変わったか
- 「分からないまま」に耐えられるようになったか
- 評価されない努力を続けられるようになったか
- 専門性そのものより「文脈」を扱えるようになったか
- 回り道を、自分の選択として引き受けられているか
- 博士課程を「なかったこと」にせずに済んでいるか
これは「博士課程に進学してよかったか?」という問いを後から評価するとともに、進学を検討する際に
「何を基準に判断すればいいか」を考えるヒントにもなると思います。
ということで、6回に分けて考えていきます。1回目は「思考のOSは変わったか」というテーマについて。
思考のOSは変わったか
考えるポイントは、以下のような観点かなと。
- 分からないことを構造的に分解できるようになったか
- 仮説 → 検証 → 修正を日常的に回しているか
- 感情と事実を切り分けて考えられているか
まず大事な前提が2つあります。
1つ目。僕が博士課程に進学したのは2015年、学位取得は2019年。しかも社会人を経由せずに、大学(6年制)卒業後にそのまま博士課程に進学しました。修了後に初めて社会人となり、それから7年が経ったのが今です。
2つ目。これは当然かもしれませんが、人間は生きているといろいろなことを学び、日々成長しているという前提に立つと、2015年に博士課程に進学してからの11年間で日々アップデートされている——と思いたい。
以上のような状況なので、〈博士課程進学前の自分〉と〈現在の自分〉を比べた場合、仮に差があるという結果になったとしても、その因果には博士課程以外の要素も多分に含まれます。つまり、「博士課程に進学したことによって思考のOSは変わったか」という評価を純粋に行うことは不可能。
このような前提を踏まえ、結論、「思考のOSは変わったか」という問いに対して答えると、
博士課程自体にOSを変えるほどのインパクトはなかったものの、その後の基盤となる方向性を定義することはできた
と言うことができると思います。少し分解して考えてみましょう。
分からないことを構造的に分解できるようになったか
まずは「分からないことを構造的に分解できるようになったか」について。
現時点でできるか?——という問いだと、「Yesだと思っている」が答えになるかな。一口に構造的に分解といっても、分解の方向性や解像度といった観点があり、できる・できないを一概に述べることが難しい。
分解の方向性については、その観点のバリエーションが多いほど構造的に分解しやすくなるのだと思います。そこにセンスが宿るし、独自の観点というものもある。だから人それぞれでいいけど、観点のバリエーションは多い方がいい。
また、分解の解像度については、そりゃあ解像度高い方が望ましいでしょう。判断を誤らないためには、できるだけ詳細まで把握しておいた方がいい。
——となったとき、果たして僕がどのレベルまでできているか?
例えば大手コンサルファームなど、会議の中で一瞬で構造分解する人にも遭遇するんです。正直そういう人たちには太刀打ちできない。頭の構造と回転が全く別物なんだろうなと思うこともあります。
仮にそういう人たちのレベル感をもって「分からないことを構造的に分解できる」と定義するのであれば、僕はできていないことになるかもしれない。
しかし、ハードルをもう少し低いところに設定するのであれば(つまり「できる・できない」のゼロイチで考えるのであれば)、できる部類に入るんじゃないかな。これは願望も含みます。
「分からない!」をどうやって処理するか
僕がよくやるのは、分からないことを放置するのではなく、帰納と演繹を繰り返して具体と抽象を行き来しながら、物事の解像度を深めていくようなアプローチ。
目の前に「よく分からない何か」が出現したときに、どこからどのように深掘りしたらいいのか見当もつきません。そんなときに、どこでもいいから適当にひとつ具体的に掘り下げてみるんです。
例えば、最近掘り下げたことに「会計処理における減損って何やねん…」という問いがありました。そもそも会計処理の基本も分かっていないし、減損という処理も全くピンときませんでいた。素人すぎるのは置いておいて。
今ではChatGPTに好きなだけ質問を投げられるので、「分からない!」というボールをいろんな角度からぶつけることができます。そうすると少しずつ分からなかったことの輪郭が現れてくるから、分かる範囲の全体像を把握しようと努める。
その結果、会社の状態を表すときに会計という言語を使うこと、その会計という言語の中で用語や数字の意味が定義されている。その中に減損という概念がある。このような知識に辿り着きました。
この手法は博士課程で身につけたものか
とはいえ、このような手法を博士課程で身につけたのか、それともその後の社会人経験を踏まえて変わったのか、もはや判断がつかないですね。
正直あんまり覚えてないのですが、「分からないことを構造的に分解するという手法がある」ということを学んだのは、博士課程だったのは間違いありません。
その後、社会人として、PMDAで膨大な資料を処理してきたし、現職では全く新しいプロダクトを作ってきました。そのような経験の中で場数をこなすことによって、自分の中の感覚的に落とし込むことができたのだと思います。
あくまで僕の場合は博士課程がきっかけとなっただけであって、進学しなければ身につかなかったか?と問われると、必ずしもそうではなかったかも。構造的に分解して考えるという思考法は、この世の中で普遍的なものであるから、他の場所でも学べたと思います。
仮説 → 検証 → 修正を日常的に回しているか
次に、「仮説 → 検証 → 修正を日常的に回しているか」という問い。
結論から言うと、このサイクルは日常的に回していると思います。というか、このサイクルを回さないと仕事になりません。
今にして思えば、博士課程で扱っていた薬物送達の分野における仮説検証のサイクルは、単に時間がかかるというだけでなく、「やり直しが効きにくい」という点で重たかった。
一度実験を走らせると結果が出るまで待つしかないし、無駄に動物実験を連発するわけにもいかないし、途中で仮説を修正したくなっても簡単には戻れない。その緊張感が、常に付きまとっていました。
まあ、仮説を立てること自体が嫌だったわけではありません。ただ、仮説を検証するまでの距離があまりに遠く、その間で自分の手応えを確認できないことが、正直しんどかった。
今振り返ると、「仮説を立てる楽しさ」よりも「検証に耐え続ける忍耐力」を求められる環境だったのだと思います。
仮説検証のサイクルが回る速度
一方、現在の仕事では、仮説 → 検証 → 修正のサイクルを、すばやく回すことができる。そして可能な限り軽く回すことを意識しています。
完璧な仮説を立てるよりも、小さな仮説を立てて、早めに間違える。検証も、完璧なデータより「方向性が分かるか」を重視する。アジャイル開発みたいなものです。
例えば、〈Aという問題が判明する → 問題の原因を特定する → 経営陣に報告して対応の方向性を確認する → 対策する → 検証する → リリースする → 完了〉というサイクルがある場合。
この場合の仮説は、「Aという問題が解決すると炎上が鎮火する」とか「原因を特定して修正すると問題が収まる」とかです。このくらいの小さな仮説を1〜2週間のサイクルで回しながら、日常的に仕事を処理しています。
しかも僕は今マネージャーなので、全てひとりで手を動かすわけではありません。重要な部分をハンドリングして、実作業はメンバーに下ろしたり、エンジニアと協調して解決していく。そうやってみんなに協力してもらうことで、レバレッジをかけながら仮説検証のサイクルを短くすることができる。
一方で、博士課程における研究は、基本的に全部ひとりで行わなければなりませんでした。だからこそ、「仮説を立てる楽しさ」よりも「検証に耐え続ける忍耐力」が求められたということです。
もし博士課程への進学を検討しているなら、「どの分野で、どれくらいの速度で仮説検証が回るのか」は、事前にかなり意識しておいたほうがいいポイントです。
少なくとも僕の場合は、博士課程に行くかどうかよりも「どの研究分野で博士課程を過ごすか」が、その後の研究体験や価値観に大きく影響すると思っています。
感情と事実を切り分けて考えられているか
最後の問いは「感情と事実を切り分けて考えられているか」です。
これは博士課程はあまり関係なくて、人として当然のことな気がします。少なくとも僕自身の感覚では、感情と事実は切り分けて考えられています。ただし、これも博士課程で培ったものではなく、もともと持っていた性質に近いものだと思っています。
一方で、感情と事実を切り分けて考える「必要性」を、強く意識するようになったのは博士課程以降かもしれません。
実験結果が思った通りに出なかったときや、仮説が否定されたときに、「悔しい」「納得できない」という感情と、「データとして何が示されているか」という事実を、意識的に分けて扱わないと前に進めなかった。
これは、ただ「うまくいかなかったから悔しい」という話ではなくて。人より長く大学に残り、その後の人生がどう進んでいくのか全く読めない暗闇の中にいる、という事実を忘れてはいけません。そんな状況でネガティブな結果が出てきたら、何とも言えない焦りと不安が押し寄せてきます。
でも、そういう感情を跳ね飛ばして、理性で勝利しないといけない。正直、このプロセスが本当に辛かった。地獄を見てきた人にしか分からない感覚だと思います。
そういう意味では、博士課程が感情と事実を切り分ける力を「身につけさせた」というよりも、その必要性を繰り返し突きつける環境だった、という言い方のほうが近い気がします。
まとめ|博士課程とは強制的に初期設定を作る場だった
ここまでをまとめると、「思考のOSは変わったか?」という問いに対する僕の答えはやはり同じです。
博士課程そのものが、思考のOSを書き換えたわけではない。ただし、その後どんな方向にアップデートしていくかという「基盤」を定義する役割は、確かに果たしていた。
分からないことを分解して扱う癖。仮説検証のサイクルの重さと速度を身体感覚として知ったこと。感情と事実を切り分ける必要性を、何度も突きつけられたこと。
それらが劇的な変化だったとは言えないけれど、後から振り返ると、確かに自分の思考の初期設定に書き込まれていたような気がします。
博士課程への進学を検討している人にとって、「何が身につくか」は気になるポイントだと思います。
ただ、僕の実感としては、博士課程は何かを授けてくれる場所というより、分からなさや不確実性に長く晒されることで、思考の向きが矯正されていく環境でした。
向き不向きが出るのは、ここだと思います。仮説検証のサイクルがどれくらい重い分野なのか。ひとりで粘り続ける時間を引き受けられるか。感情を抱えたままでも、目の前の事実に踏みとどまれるか。
繰り返しになるけれど、結局のところ、博士課程は「行ってよかった/悪かった」を簡単に決められるような出来事ではありません。時間も、感情も、体力も、いろいろ消費した。そういう意味で、人生における投資でした。
ただ、いまの自分の思考や仕事のやり方を見ていると、どこかに博士課程の影が残っているのも事実です。
OSが変わったとまでは言えない。でも、初期設定に書き込まれた何かがあって、その上に今の自分が動いている。今回は、そんな結論にしておこうと思います。
もし進学を検討しているなら、僕はこの3点だけ先に見ておくといいと思います。
- その分野は仮説検証のサイクルがどれくらい重いか(やり直しが効くか)
- ひとりで耐える時間を引き受けられるか
- 感情を抱えたままでも、目の前の事実に戻ってこれるか
次回は、6つの評価軸の2つ目、「分からないままに耐えられるようになったか」について書いてみます。博士課程で一番つらかったのは、実はここだった気もするので。
「博士課程の費用対効果を7年後に考え直す」今後の予定
- 思考のOSは変わったか(今回の記事)
- 「分からないまま」に耐えられるようになったか
- 評価されない努力を続けられるようになったか
- 専門性そのものより「文脈」を扱えるようになったか
- 回り道を、自分の選択として引き受けられているか
- 博士課程を「なかったこと」にせずに済んでいるか







