人間にしかできないこと。
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文章での発信は滅びない
文章で発信するのは滅びない。そう信じたい。
映画に対する小説のように、そしてテレビに対する新聞のように。インターネット上の発信方法が動画メインになったとしても、文章での発信は共存するのではないか。そう思っています。
なぜなら、みんな好き好きがあるからね。動画の方が(発信者が意図していないとしても)情報量が多いから、その方が助かることもある。でも、文章や写真で十分だから動画である意味がないと思える人にとって、テキストメディアでの発信も依然として需要はあります。
だからこそ、インターネット上の発信においても、動画と文章は共存できると思うんです。それはブログという形式なのか、はたまたnoteなのか。もう個人ブログを運営してる人、少ないからね。どんどん大きなプラットフォームが主体になっていくんでしょうね。
テキストメディアでの発信が残ると仮定しても、胡座をかいている訳にはいきません。2020年代、生成AIという大きな波が訪れています。文章に限ったものではなく、写真も動画も音楽も生成AIの発展はめざましい。
とはいえ、動画や写真に自然な形で生成AIを取り入れるのは、まだまだ難易度が高い。一方、文章の場合は、現時点で既に生成AIで十分置き換えが可能な状態にあるでしょう。
生成AIとの共存
「生成AIによる文章」と「人間が書く文章」が同じテーブルに並んでいる時代。果たして、これらは共存できるのか?
生成AIが普及したことで、分かりやすい説明は誰でも再現できるものになりました。でも、その人が何を感じ、どう解釈したか、それはどんな背景や文脈でその考えに至ったか。このような人間らしい揺らぎや体験を通じた洞察だけは、AIには再現できません。
僕もそう思うし、ChatGPTに聞いてもそのような答えが返ってきました。つまり、これから個人レベルの発信で価値を持つのは、情報そのものではなく、「その情報に対してどのようなスタンスで向き合うか?」というスタンスの部分なんじゃないかなと。
だって、生成AIが作る文章って、正しさはあっても(ときには間違っていることもあるけれど)人間味がない。理路整然としすぎている。「その人がどう感じ、どう考えたか」という人間の視点は、どう足掻いても生成AIに置き換えることはできない。そう信じています。
だから、自分の視点にフォーカスして語っていく。ここに、個人ブログで発信する意義があると考えます。
新しい時代で、どうやって届ける?
では、そのような前提で個人ブログを運営したとして、必要としている人に対して適切に届くのか。
答えはYes、だと思っています。ただし、かつてのように、「情報が充実しているから読まれる」のではなく、「そこに個人としての視点が入っているから読まれる」に変化していくんじゃないかな。つまり、必要としている人にだけ届くようになる。
たとえばGoogle検索であっても、今のアルゴリズムは、よりパーソナルな関心に基づいて結果を出すようになっています。そして、生成AIを介した検索では、その傾向がさらに強まる。生成AIは、「誰が言ったか」や「どんな体験に基づくか」を理解しようとするからです。
つまり、ひとりひとりのニーズに基づいて出てくる情報が変わる。それは偶然の出会いではなく、文脈の一致によって生まれる出会いです。かなりニッチな情報であっても、必要な人にはちゃんと出てくる。YouTubeのトップページが顕著な例かな。有名なはずなのに自分は知らないYouTuber、いるじゃないですか。
このような前提を正とした場合、個人ブログの運営者として、僕はどうすればいいのか?
結論はシンプルで、「誰に届かせるか」を意識するより、「何を残すか」を意識すること。自分の経験や考えを誠実に言語化し、それを丁寧に積み重ねていく。そうした文章は、時を越えて、ある日ふと誰かの検索やAIの回答の中で拾われるようになるはずです。
〈思考と体験のアーカイブ〉を突き詰めよう
ずっと前から打ち出していて、何度も言及しているけれど、僕はこのブログで〈思考と体験のアーカイブ〉を作ろうと試みています。
全ての記事は自分のためにある。未来の自分が振り返ったときに、「ああ、このときはこういう経験をして、こういうことを考えていたのか」ということが分かるログを作る。それこそが、ブログという仕組みの原点であり、本質です。
そのような信念のもとで、たとえば新しいガジェットを買えば感想をレポートするし、旅に行けば写真とともに記録しています。その情報だけを切り出せば、自分や家族以外の誰にも求められていないものもあるでしょう。でも、自分にとっては大切なログなのです。
それを発信すると、期せずして誰かの役に立つことがあるかもしれない。自分のためを突き詰めた結果として、誰かの役に立てば嬉しいんですよ。
これはつまり、今後の生成AI時代に求められる、「個人レベルの発信における価値そのもの」なんじゃないかな。ずっと前からやっているし、これからも変わらない、変えてはならないこと。
人の考えや価値観は移り変わっていくものです。もちろん僕もそうで、価値観は1年前と比べてアップデートされているし、とあるタイミングでブレイクスルーが起きて別人のようになることもあるかもしれない。
その過程を丁寧に記録することで、思考の変遷が分かるようになるし、将来の生成AIと組み合わせれば新たな価値を生み出すことができるかもしれない。いろいろな可能性を信じながら、自分が最適だと思ったことをやる。
これは自分に対する宣言でもあります。僕にとっての最適とは、自分の思考と体験をひたすら記録していくこと。そのためにこのブログを運営しているのです。そして、それをやめることはありません。







