継続しなければ、何者にもなれない。
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飽きっぽい僕がブログを5年も継続できた理由
昨日の記事を書いていて気づいたのだけれど、ブログをちゃんと書き始めて5年が経ったらしい。
5年前は、ブログという個人メディアが注目され始めて、有名なブロガーが何人も出始めたような時代。僕も好きでよく読んでいる個人ブログがあり、自分で書くことにも興味が出てきていた。目の前のパソコン1台で始められるし、とりあえずやってみよう思って始めてみた。でも、継続することが難しかった。
過去記事を漁ってもらえば分かると思うけど、このブログは2015年7月に開設したものの、たったの2記事を投稿したのみで、一度挫折している。開設しただけで満足してしまって、継続するためのモチベーションを維持できなかった。
しかし、2016年3月になって、せっかく開設したブログだから放置するのは勿体ないし(ドメイン代は発生しているし)、ブログを書くということに対する興味は薄れていなかったので、継続してみようと思い始めた。開設の手間はなく、新たな記事を書いて投稿するだけだったので、最初よりは心理的なハードルは低かった。
書き始めたのはいいものの、文章を書くということに不慣れであったため、1記事を仕上げるのに大変な労力と時間がかかった。執筆に慣れた今の視点で見返してみると大した記事ではないけれど、それでも当時の自分にとっては大変なことだった。
そこで気づく。全体を通して意図が一貫した文章を書くということは、とても頭を使うことではないか。一文一文だけでなく、文章全体を通して矛盾や破綻がないようにまとめなければならない。一文の文法や言い回しにも配慮しつつ、全体を俯瞰的に見たときのその文の役割も気にしながら、文章全体として同じ方向を向くように意識して、キーボードを叩く。
重要なのは、僕はこの作業を大変だとは思ったけれど、決して嫌ではなかったということ。むしろ楽しいと思えたのだ。
そうか。文章を書くのは楽しいことなんだ。好きこそものの上手なれと言うことだし、楽しいと思えるのであれば、ある程度の能力が身につくまで続けてみたら、新しい視点が身につき、新しい世界が見えるかもしれない。その先にはきっと、もっと楽しい何かがある。
これこそが、飽きっぽい性格の僕がブログを5年間も継続できた理由だ。本質はかなりシンプル。文章を書いて記事をまとめ上げることを「楽しい」と思うことができた。そして、それを極めてみようと思った。それだけのことだ。
その先に新しい世界があったか
今でも上手に文章を書けるとは思っていないけれど、一定のレベルには達していると思っている。
最初のうちは、全体として支離滅裂な文章とならないために、文章全体の骨格を作った上で、それに肉付けしていく手順でしか文章を書くことができなかった。しかし今では、全体像を頭の中に思い浮かべつつ、先頭から完成版の文章を出力できる。この記事も先頭から書き殴ったあと、少し体裁を整えただけだ。
ブログを始めた当初にあった、文章を書くことを極めてみるという目的。完璧ではないものの、ある程度は達成できた。では、その先には新しい世界があったのか——。
結論から述べると、あったと思う。ただし、新たな「別の世界」があったというわけではなく、「文章を書くという軸のまわりに新たな世界がくっついてきた」というイメージ。
例えば、ブログで文章を書いていると、記事で使う写真にもこだわりたくなってきて、写真に興味が生まれる。写真の質と記事の質は強く相関するので、写真の質が上がってくると、それを掲載する記事の質も上がる。そうすると、記事の集合体であるブログ全体の質も上がる。
余談だけど、今は文章を書くこと以上に写真を撮ることが好きになっている。仮にブログを書いていなくても、今のように写真を撮ることが好きになっていたか——と考えてみることがあるけれど、おそらくその可能性はない。なぜなら、写真にこだわりだした原点は「ブログに写真を掲載すること」であり、その原点が揺るいでしまうと、そもそも写真に興味を持たなかったかもしれない。
文章と写真の相乗効果で記事の質が上がり、ブログの質が上がると、他の(質の高いブログを書いている)ブロガーとのつながりが生まれる。そのつながりがきっかけとなり、大きな場所で記事を書く機会にも恵まれる。
このように、ブログで文章を書き続けていると、文章を書くという軸のまわりに、新たな世界がくっついてくるのだ。新しい「別の世界」があるわけではないし、別の世界に行くことを望んでいるわけはないけれど、現状は悪くないと思う。
ただし、時代背景も重要なので、何もない状態で今から始めても再現性があるわけではない、という点には留意する必要がある。そもそも時代背景が同じであっても、書き手が違えば結果も違うので、あまり大きな問題ではないかもしれないけれど。
さらにその先には何がある?
僕がブログを書く目的は、思考と体験のアーカイブを作ることだと、いつかの記事に書いた。その時々で考えたことや体験したことを書き連ねていけば、数十年後は立派なアーカイブとなっているはずであり、いつか自分の人生を振り返るときが来たときに、きっと役に立つと信じている。
このように、最初は文章力そのものを鍛えることが目的だったのに、ある程度のレベルに達してからは別の目的も生まれた。どうせ目的なんて移り変わっていくものなのだから、当初の目的なんて打算的なものでも構わないのだ。
それよりも、継続しなければ意味がない。何かを始めたいと思っていても、行動に移さなければ何もしていないのと同じ。たとえ行動に移したとしても、それを継続しなければ一定のレベルに達することすらできず、何者にもなれない。だから、もし自分がやりたいと思うことがあるのなら、自分の感性を信じて継続するしか道はないのだ。
もちろん、継続することには労力や苦痛が伴う。自分が「好きなこと」や「楽しいと思えること」であっても、継続していると嫌になるタイミングが必ず来る。そのときに、ぐっと踏ん張って継続できるかどうか。これが分かれ道で、継続できれば新しい世界が見えてくるし、やめてしまえば何者にもなれない。
この先にどのような世界が待っているのか、自分にも全く想像がつかない。しかし、継続していれば確実に新しい世界が見えてくる。社会的に評価されることかもしれないし、ただの自己満足かもしれない。でもそんなのどっちでもいい。
たとえ自己満足であっても、継続すること自体に意味がある。だって、継続しなければ自己を満足すらさせてあげられないじゃないか。モヤモヤを抱えたままで人生を終えるのなんてごめんだ。だから、自分が好きなこと、楽しいと思えること、嫌じゃないことを継続する。絶対に中途半端な状態ではやめない。
5年前は飽きっぽくて何も続かなかったけれど、自分に鞭を打ちつつ踏ん張って継続してみたら、意外とうまくいった。もう継続するのは苦痛ではない。だから、さらにその先にあるはずの新しい世界を探しながら、文章を綴っていこうと思っている。