こんな日が来るとは。
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10周年を迎えてしまった
ついにこのstarnote*が10周年を迎えました!
——という記事を、ぴったり10周年の日に出そうと思っていたのですが、日付をすっかり勘違いしてしまい、数日遅れでの投稿となってしまいました。実にこのブログらしい。
さて、10周年ですってよ。自分のために記録し続けて、いつの間にか大台に乗ってしまったというか、10年やってる割には実績少なくないか?みたいな指摘も(自分から)ありつつも、これまで楽しくやってこれたから、それでいいのです。まずは、ね。
毎年のように言っているかもしれないけれど、まさか10年も続くなんて、始めた当初は夢にも思っていなかったです。もはや3日以上続くとも思っていなかった。現に最初の2日だけ投稿して、半年以上放置していたしね。
それが10年だってさ。最初は何を書いたらいいかも分からなかったし、そもそも文章を書くこと自体も苦痛だった。それでも続けてみたら、あるときから楽しくなってきたんです。
そんなこと、よくある話かもしれないけれど、記事執筆を通して「自分の中の思考が整理されていくのが気持ちいい」と思えるようになってきた。それから先は本当に早くて、書きたいことはどんどん湧き出てくるし、たまには人の役に立っている実感もあった。
文章力を強化する、という目的があったけど
最近はChatGPTをはじめとした生成AIが台頭していて、僕も記事執筆の工数削減に助けられています。けれども、ブログを始めたときにこんなのがなくて本当によかったと思っています。
僕がブログを始めたきっかけのひとつは、文章執筆のトレーニングでした。それなのに、自動的に文章を書いてくれ便利ツールがあると使ってしまう。自分自身の執筆能力は向上しないまま、AIのディレクション能力ばかりが伸びていってしまう。それって、本末転倒じゃないですか。
もちろん、どんなときにでも生成AIが使える状況にあるのなら、それでもいいかもしれない。しかし、文章力を向上させるためには、「思考の構造化」「視座の上げ方」「俯瞰的な可能性検討」「声に出したときのリズム」など、意識しないといけないポイントは山ほどあります。
最初から生成AIに頼ってしまうと、本人にはそのあたりの能力やセンスがまるっと欠如したままで、見栄えだけいい文章が書けてしまう。生成AIが出力した文章が微妙であっても、微妙かどうかの判断がつかない。それって、何も自分のためになってない。
このようなことを考えると、やっぱり生成AIがなくてよかったなと思ってしまうんです。なぜなら、僕はブログ執筆を通して獲得した能力を使って今の社会人生活を営んでいると思っていて。
文章を書くことだけが目的なら生成AIを活用しまくっていいんだけど、そうじゃない。みんな同じだと思うけど、せっかく時間をかけてやるんだから、ここで獲得し伸ばした能力をスライドして、別のフィールドでも使いたいじゃないですか。
だとすると、生成AIを使って楽をするのは得策じゃないよね。でも人間は(少なくとも僕は)楽をしたくなる生き物だから、あったら使ってしまう。だから、ブログを始めた当初はなくてよかったなと。そう思っています。
ブログを続ける意味とは
そうすると、「文章力を獲得したあとは、果たして続ける意味はあったのか?」という問いが生まれる。発信の主戦場が動画に移っていったのだから、流行に合わせてYouTubeに移行してもよかったんじゃないか?と。そう思うことも、正直ゼロではありません。
しかし、僕の発信活動の目的は「淡々と記録を書いて、思考と経験のアーカイブを作ること」であり、そのモチベーションは「楽しく文章を書けること」にある。だから、動画にすると目的を達成できないし、モチベーションも続かないのです。
そして、情報を受け取る側としても、動画よりも文章の方がいい場合が多くないですか? 情報量が多い動画の方がいい場面も当然あるけど、知見を蓄積していくためには文章の方がふさわしい。なぜなら、人類の知見は文章という形で蓄積されてきており、その実績を否定できないからです。
要するに、「思考の体験のアーカイブ」を作る、という僕の目的から逆算したとき、自分と向き合う必要がある。そのためには、静かな環境でキーボードを叩く方が僕に向いている。それだけのことです。
その結果、10年間で書いた記事は、現時点で公開中のものをカウントすると、1,000本を超えました。非公開にすることはかなり稀なので、基本的に書いた総数と同値になります。10年かけて1,000本ノックをやった感じだね。
10年間で1,000本程度ということは、1年間で100本、つまり3〜4日あたり1本。発信するメディアとしては少ないかもしれないけれど、自分用の記録として書くのであれば、まあまあの高頻度じゃないかな。こうやって執筆を繰り返す中で、着実に積み重なってきた自覚もあります。
そう、自分用の記録として、ちゃんと機能しているんですよ。「あのとき買ったお皿、どのお店だったっけ?」とか、「前にiMacが壊れたときは、どんな対応をしたんだっけ?」とか。だいたいブログに書いてるから、検索したら出てくる。書いた当時の自分に感謝するとともに、記録することの重要性も身をもって体感しているのです。
10年でこんなに変わるのかと
この10年間、いろいろなことがありました。
大学院に進学したことをきっかけに、何か新しいことを始めたかった。それでブログを始めて、最初は面倒になって諦めかけたけれど、いつからか記事を書くということが自分の手に馴染んできた感覚があって。それからは、本当に早かったです。
研究室からの帰りにスタバに寄ってがむしゃらに記事を書いていた光景を、今でもふと思い出すことがあります。12インチMacBookを駆使しながらアウトプットしていた日々が懐かしい。記事ができるまで帰らないという謎の縛りを自分に課したりして。長崎のスタバは空いててよかった。
10年という月日は、今振り返ってみると一瞬のように感じられるけれど、そこには確かな日々の積み重ねがあって、本当はずっしりと重いものなのですね。思い出すたびに、胸の奥がぎゅっと締め付けられます。
当時の大学院生という立場は、とっても不安定でした。大学の同級生はほとんど就職していなくなり、そんな中で4年間もひたすら研究や論文執筆の繰り返し。その先に本当に光があるのか分からないし、どう進めばいいのかも分からない。
でも、その不安定さこそが、記事を書く推進力になっていたのだなと、今にして思います。不安定だからこそ、目の前の研究活動をやるだけでは不安になる。だから手札が少ない中でも、いろいろ保険をかけたかった。僕にとってそれがブログだったのです。
その判断は本当に正解だったなと思います。ブログをやっていなくても普通に就職や転職はできたと思うけれども、ブログを通して身につけた文章力や思考力(まだまだ足りないけど)を武器にして、新しい挑戦をすることができた。それは誇っていい。
そして今では、結婚して、家を買って、犬と暮らし、充実した日々に辿り着きました。10年前の不安定さや閉塞感とは全くの正反対です。仕事では、大きなフィールドの上で管理職となり、働く場所に縛られない自由さと、日々の暮らしの安定の両方を手に入れた。
たったの10年。人生はこんなにも変わるものかと。次の10年も、同じくらい変えていきたいですね。そしてその記録も、引き続きこのブログに書いていきたい。
これからもよろしく
さて、11年目となったstarnote*も、通常どおり運営していきますよ。読んでくれる人がいる限り、書き続けます。
「いや、そこは『読む人がいなくても書く』じゃないんかい!」って思うかもしれませんが、せっかく書いた記事を読んでもらえないの、結構しんどいんですよ。いくら自分のために記録しているといっても、公開を前提として読者さんの方も向いて書いているわけで、それで読まれなかったら寂しいのです。
だから今後も、気が向いたときに読みに来てくださると、とっても嬉しいです。引き続き、自分のペースで、かつ丁寧に記事を書けるよう、努力を惜しまない所存ですので、何卒。
そうそう、ちなみに、この記事は生成AIを使わずに書きました。このような内容の記事は、自分で書くことに意味があると思って。