足りなくても補う必要はない。
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いきなり自分語りで申し訳ないんだけどさ。これまでの僕の人生を振り返ってみると、「バイタリティーが足りない」の一言に集束するかもしれないなと思う。
子どもの頃も自分から進んで何かをやりたいと親に訴えた記憶はないし、ただただ与えられた学校の勉強・習い事・部活などをこなしていただけに過ぎなかった。いろんなことに興味は持ちつつも、表面上をなぞるだけで、それらにのめり込むことはなかった。
そして、皆と少し違うキャリアを築こうとして博士課程に進んだのも、一見バイタリティーのあるように思えるけれど、実態は少し違う。自分の力を振り絞って新規性のある結果を生み出し論文という形で世に送り出したのは確かだけれど、悪く言えば教授が引いた線路の上をただ進んできたに過ぎない。
というのは、もっと自分にバイタリティーがあってもっと行動すれば、あんなことやこんなことにも手を出しながら成果を大きくできる可能性があったのに、それをしなかったから。
仕事でも自分から動きまくってあれやこれやと課題を見つけて解決しまくっている人を見ると、僕にはできないなと思ってしまう。そんなペースでゴリゴリと進んでいたらあっという間に心が疲弊してしまい、1年も持たない気がする。
でも、必ずしもそれを悪いことだと思っているわけではなくて。
周囲を巻き込みながら成果を掴み取ろうとする意識が希薄な反面、静かに心を落ち着かせて手を動かすのは得意だったりする。だから期待された以上のアウトプットを、期待された以上のスピードで出すことに関しては割と自信があるし、昔からそのような部分ばかり評価されてきた気がする。もちろん今もそう。
よく言うと器用なんだよね。これまでの人生で立ちはだかった困難にも、持ち前の器用さでもってのらりくらりと乗り越えてきた。論文や文章を書くのがその最たる例で、静かに手を動かしながら、要領を得るのは人よりも早かったように思う。
ここ数年は写真を撮るが好きだけど、これもいい例だよね。心を落ち着かせて静かにファインダーを覗き、撮りたい風景や構図を見つける。その中で、心躍った瞬間に針が振れたかのようにシャッター切る。そしてできあがった作品を見ながら余韻に浸る。
だから、バイタリティーがないからこそ、その逆にある自分の得意分野を伸ばすことに注力してきた感じ。自分としては悪い部分ばかりに目がいってしまい、バイタリティーが足りないところだけを見て短所だと決めつけてしまいがちだけど、意外とその反対方向が長所だったりするのだ。だからまずは長所に気づいて、あとは伸ばせばいい。
バイタリティーの塊のような体育教師からはやる気のないやつと見なされることが多かったけれど、実際そうなんだ。バイタリティーが皆無だから、物事に対して皆が言う「やる気」というものが湧いて出てきたことなどない。それは認めよう。
だからこそ、別にやる気はないんだけど、「自分の能力をうまく活かすことができる場所で、最大限役に立っている状態」に対して喜びを見出せるようになった。昔から適材適所と言うし、このような状態で仕事を回すことが社会に対して自分の価値を還元することができるのではないだろうか。
つまり、「バイタリティーが足りない」を長所にするための戦略は、
- まずはバイタリティーが足りないことを認め、それを悪いことだと思わない
- きっとその反対方向に自分の価値があるはずだから、めげずに見つけよう
- 見つかったら、伸ばしていく
- 自分の価値を最大化できることを日常的に行う(仕事でも、趣味でも)
- それを繰り返しながら自己肯定感を上げる
この5つにまとめることができるかもしれない。