それは、風化させないこと。
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毎年決まって、8月9日は登校日だった。
小学校も、中学校も、高校も、朝から体育館に集まって平和集会を行う。夏休みに入る前にクラスで調べていたことを発表したり、ときには語り部さんの話を聞いたり、「青い空は」という平和の歌を歌ったり。子どものことから12年間も同じようなことの繰り返しだから、うんざりしていなかったと言うと嘘になる。
そして、11時2分のサイレンに合わせて黙祷をする。
1分間でいろいろなことに想いを巡らせる。数十年前の今日、はるか上空から落ちてきた爆弾が地上500mで爆発し、閃光と熱線と爆風と放射線を放ちながら、瞬く間にこの街を空っぽにした。道を歩いていた人も、工場で働いていた人も、学校で授業を受けていた生徒たちも、一瞬で真っ黒焦げになり、腕をもがれ、内臓が飛び出し、死んでいったのだ。
その様子を頭の中に映像として思い描くと、あまりにもリアルで、描写できないほど残酷で。「もし今この瞬間に、同じような爆弾が落ちてきたらどうしよう」なんて、ありもしない不安に恐ろしくなりながら、重たい気持ちで1分間をやり過ごす。
その日は昼すぎには下校できるから、「自分が生きているのが平和な時代でよかったな」なんて、ありふれた感想を胸に抱えて家に帰って昼食をとり、なんてことない日常生活に戻るのだ。
僕の祖父母のうち、父方の祖母と母方の祖父母は被爆者だから(父方の祖父は戦争に行っていたので被爆していない)、僕の両親は被爆2世、僕自身は被爆3世ということになる。被爆2世の両親を見ていても放射線による影響はなさそうなので、僕への影響は限りなくゼロに近いと言っても差し支えないだろう。
両家はどちらも長崎市内にあったけれど、母方の祖父母宅は市内中心部から離れた場所だったので大きな被害はなかったそうだ。でも、父方の祖父母宅は爆心地から2.5km程度、長崎のシンボルとして親しまれている稲佐山の麓にあった。このくらいの距離だと、原爆の熱線を直接受けたり、爆風で吹き飛んできた物に当たれば、大やけど〜死亡は免れないという。
しかし、祖父母宅は稲佐山の谷の部分にあったことから、熱線も爆風も免れることができたそうだ。もし仮に祖母が被害を受けて亡くなってしまっていたら、当然父は生まれていないし、僕も存在しないことになる。だから、この谷には感謝しなければならないと思っている。
8月9日の第1目標は北九州の小倉だったけれど、雲に覆われていて目視で投下できなかったから、爆撃機は第2目標の長崎にやってきた。長崎も曇っていたそうだけど、雲の切れ間に街を目視できたから、そこに落としたらしい。
落とされたのは本来の目標から2kmほど北の浦上地区だったから、稲佐山の麓の谷は被害を免れた。もし長崎が晴れていたらもっと南側に落とされたはずで、祖父母宅はひとたまりもなく灰になり、祖母が生きていたかどうかも怪しい。だから、74年前のいろいろな偶然が重なって、僕は今ここにいるのだ。
もちろん、この偶然で助かった人たちがいた裏側には、亡くならなければならなかった人々が大勢いたことは忘れてはならない。当時24万人だった長崎の人口のうち、一瞬にして7万4千人が亡くなったそうだ。重軽傷者は7万5千人だから、24万人のうち15万人もの長崎市民が被害を受けたことになる。
建物も多くが倒壊し、木造の家屋はもちろん、工場の鉄骨は折れ曲がり、レンガ造りの天主堂も吹き飛んだ。今でも数多くの爪痕があり、長崎大学には原爆の爆風で傾いた門柱が残っているし、近くの神社には片方が吹き飛ばされて一本足で立っている鳥居もある。大きな穴が空いたクスノキも残ってる。
だから、この街の下には残骸がたくさん眠っていのだ。爆心地公園には被爆当時の地層が残っているけれど、僕らは知らず知らずのうちに、暗い歴史を踏みしめながら生活しているのかもしれない。
だけど、二度と植物が育たないだろうとまで言われた長崎は復興を果たした。原爆が落ちたグラウンド・ゼロはきれいな公園として整備され、すぐそばには平和を願う公園もあり、大きな像が長崎の街を見守っている。街には緑が溢れ、港も整備され、かつて廃墟となったことを思い起こさせないほど、きれいな街になった。
東京に出てきて思うのは、誰も74年前の悲惨なできごとに興味なんかないということ。11時2分にサイレンなんて鳴らないし、人々は自分のことで頭がいっぱいだし、職場では皆がいつものように忙しそうに働いている。だから僕はひとり静かに目を瞑り、黙祷を捧げる。
でも、絶対に風化させてはならないと思うんだよな。もう74年も経って、被爆者の平均年齢も82歳を超え、被爆体験を語れる人の数は減っていき、近い将来に確実にゼロになる。そんな未来が現実になったとき、僕らが暮らす国は平和なままでいられるだろうか。
だから、少しでも多くの人の心に響くように願いながら、原爆のことを文章にして伝える。それが、生き残った子孫の使命なのかな。今ではそう思っている。