重い腰を上げて書き始めるために。
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「じゃあ、感想を書いてみましょう。最低でも原稿用紙1枚で。はい、どうぞ。」
小学校の頃、国語の授業の中で作文を課されたときの先生の言葉です。国語の教科書にあった物語を読んだ感想とか、社会科見学の感想とか、外からやってきた講師の先生が教えてくれた話の感想とか。事あるごとに原稿用紙に作文する機会がありましたね。
でも、ふと思うんです。
我々は小学校のときから作文の授業を通して「文章を書く」ことに触れてきたけれど、その中で「文章の書き方」は習っただろうか、と。子どもの頃の記憶なので全く自信はないですけど、習ってないような気がするんだよな。
とにかく、真っ新な原稿用紙を渡されて、「自由に書いてみましょう」と。
「そんなこと言われても何を書いたらいいのか分からない。でも、分からないながらも何かを書かないといけない。そんな状態でまともな感想文が書けるわけないじゃないか」
と思いながら、作文を提出していた記憶ならあるけれど——。
でも、今なら知っています。
論文を書いたり、ブログを運営したりして、日常的に文章を書くことが多い今となっては、「文章を書く前には自分と向き合う時間が必要だ」ということを。
だって、文章を書くのは面倒くさいんです。
趣味でブログを運営して、好きで文章を書きまくっている割には、面倒くさいんです。だから、そんな面倒くさい作業に取り掛かり、さらにそれを完遂させるための「動機」がないと、いい文章は生まれません。
もし動機づけが不十分だったら「適当にやり過ごすこと」が目的となり、中途半端な文章しか出てきません。
まさに小学校の作文がこの状態。400字の原稿用紙という最低ノルマを埋めるだけのために、思いついた文章を片っ端から並べていく、単純な作業になってしまいます。
でも、自分が納得できるいい文章を書きたいと思ったら、いきなり書き始めるのではなくて、まずは「どんなことを書こうかな」と想いを巡らせてみるのが大切。
なぜなら、自分が考えていることは、自分が思っている以上に言語化されていないのです。
だから、頭の中のぼんやりとした思考を日本語に変換する作業が必要です。そのためには、思考の輪郭を見つけ、それにできるだけマッチした日本語を当てていく。翻訳しないといけないのです。
仕事で企画書や計画書を書いているときも、もちろんブログのような個人的な文章を書くときも、いつだってそうです。自分に対して「今何を考えているの?」と問いかけ、ぼんやりとした思考を丁寧に紐解いてあげる必要があるんです。
こうして日本語に変換されたものが、最終的にアウトプットされる文章です。その質は、事前にどれだけ深く思考の海にダイブすることができたかにかかっています。
文章を書くのは面倒くさいけれど、自分の思考へのインタビューで輪郭は見えてきて、綴っていくべき言葉も浮かび始めている。あとは手を動かして書くだけだ。
この状態にまで達することができると、もう文章を書くことは面倒くさくなくなります。
つまり、「ここまで考えた内容を捨てるのは勿体ない」が「文章を書くのは面倒くさい」を超えることができると、文章化のハードルは一気に低くなります。
動機づけとはそういうことです。自分が「ここまで考えた内容を無駄にしないように書き留めるためなら、面倒くさい作業をする価値がある」と思うことができると、最初の一文を書き始めるに足る動機になりうるのです。
それはつまり、頭の中で「これから書く文章全体の一言一句」まで考えてから書き始めようと言うつもりはありません。たいてい、一度書き始めてしまうと堰を切ったように文章が出てくるはずです。
だから、主に「重い腰を上げて面倒な作業を軌道に乗せるまでの冒頭部分」について考えれば委員です。
例えば、この記事だと、「あれ、そういえば学校で文章の書き方なんて習った記憶ないな、いきなり書き始めるんじゃなくて考える時間が必要だってこと、みんな意外と知らないんじゃないかな」というところから考え始めました。
僕にとっては、その時点で十分に文章を書く動機づけができたので、この記事を書き始めたという感じ。
まとめるとこうなります。
文章の冒頭部分に思いを馳せ、自分の思考を丁寧に取り出して動機づけをすると、最初の一文が書ける。そうすると、思考のストッパーが外れ、堰を切ったように文章が出てくる。
面倒くさい作業をできるだけ効率よくして、取り掛かるためのハードルを下げるためには、こんな考え方も大切——という話でした。