「やりたくないけど重要なこと」を続けるという意味で。
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僕は勉強が大の苦手です。
いや、博士課程にまで行っといて何言ってんの?と思われるかもしれませんが、よく見えない目標のために何かをコツコツ積み上げて努力するというのがとても苦手なのです。
だから、受験勉強のような「1回しかない本番に向けて長期的に努力する」というのが苦手。というよりは、ただアホらしいと思ってると言った方が正確かもしれません。
高校受験は推薦入試で小論文だけ書いてくぐり抜けたので問題にはなりませんでしたが、大学受験は大きくつまづきました。あと薬剤師国家試験も1回落ちてるし。
大学受験に関しては、努力するのが苦手だということと、受験というものを舐めてかかってたこと、そのくせ志望校を高望みしていたこと。いろいろな要素が相まって、当然のごとく失敗しました。
そのあとの選択肢としては、レベルを下げた大学に行くか、専門学校に行くか、就職するか、浪人するか、のいずれかが考えられます。
しかし、進学校だったので就活という単語は一度も耳にしなかったし、専門学校に行くような人も僕の知る限りではいなかった。だから当時はそんな選択肢があるということは考えもしなかったです。
勉強しなくても受かる大学に行くという選択肢もあったけど、まあ、大学のレベルを下げたところで、同級生のレベルもお察しなのは明らかだったので、浪人してちゃんとした大学(学部)を目指すことに。
ただ、高校時代にサボりまくっていた代償は大きく、結果的に2年もかかることになったのですが。
浪人中は北九州予備校という、九州では割とメジャーな予備校に通いました。長崎は選択肢が限られるから、ほぼ一択のような状況でした。
その2年間は、無い方が普通というか、あったとしても1年の人が多いというか。要するに2浪もする人ってそんなに多くはないわけです。だから無駄に2年も通わせてくれたことに関しては素直に両親に感謝です。
今思うと、1年間ですら辛いのに、2年も費やしたのは狂ってるとしか言えません。
しかし、浪人してちゃんとした大学(学部)に入ることが、自分に残された唯一の光のように思っていました。全然そんなことないのにね。
社会的な視点で見てみると、浪人生というのは何も生まない存在です。
本来であれば高校時代に身につけておくべきだった知識をただひたすら吸収するだけで、だからといって働いて納税するわけでもないし、新たな知見を生むわけでもない。
当人にとってみれば、こんな存在として生きていかなければならなかった2年間は、どん底以外の何ものでもなかったです。周りからの視線も辛いし、メンタルがボロボロになりました。
さらに、そこから抜け出すためには、苦手な「努力」をしないといけない。もう八方塞がりです。
でもそれでも何とか前に進まないといけなかったので、歯を食いしばって努力しました。やりたくないのは気持ちだけ持っておいて、その気持ちが出てこないようにうまく隠しながら勉強する、みたいな。
だから、僕の考え方がドライになってきたのは、浪人したのがきっかけだったように思います。自分がやりたいかどうかなんて関係なくて、やらないといけないことは何が何でもやらないといけない。たとえそれが嫌なことでも。
浪人生として2年間も過ごしたからこそ、こんな風なストレス耐性ができたように思います。強制的に自分の性格を変えられたというか、変えざるを得なかったというか。
こうしてストレスに強くなったことは、大きな糧となって今の人生に活かされているのです。
ただ、残念ながら「努力が苦手」という性格までは変えることができませんでした。今ではその性格を受け入れて、自分に無理のない範囲で好きなことを積み上げるようにしています。
その最たる例はブログですが、少しだけ自分に負荷をかけることもあるけれど、基本的には楽しくやってます。「楽しみながら続けられる範囲で継続する」というのが、これまでの人生から導き出したひとつの答えです。
関連記事として、2浪目に受けたセンター試験から10年経ったのを記念して書いたお手紙を置いておきますね。