少し考えてみる。
この記事には広告が含まれています。
昨日、奥さんと「自分にとっての宝物は何か?」という話をしていた。
彼女にとっては昔僕があげたネックレスが宝物になっていて、頻繁に使って汚くなるのも嫌だから、普段はしまっておいてあまり使わないようにしている、ということらしい。なるほど、宝物ってそういうものなのね。
考えてみると、人それぞれ自分の中での宝物の定義は違っていて、他人から見ると「そんなものが?」と思えることもあるだろう。そして、その取扱いも人それぞれ。宝物だからといって丁重に扱わないこともあるかもしれない。
そしたら、果たして僕の宝物は何だろうか——? と、そう思ったわけ。もちろん家族とかはそうなんだけど、モノとしての宝物はあるかなと。
それは車? いやいや、確かに高かったけど外で雨ざらしになってる車が宝物なわけない。宝物だったら丁重にガレージに入れて埃ひとつ積もらせないよ。
それはカメラ? うーん、確かに大事なものだけど趣味の道具に過ぎなくて、日常を記録するためのツールのひとつでしかないかな。
それは家? 確かに住みやすくていい家だし大事な資産だけど、宝物とはちょっと違うような気もするぞ。
あ、ここまで書いて思いついた。
僕にとっての宝物は、このブログかもしれないな。
8年半も丹精込めて作り込んできたし、少なくない時間をかけて記事という形でアウトプットしてきた。有限な人生の貴重な時間だ。僕の思考と体験のアーカイブを作ることを目標に、どんなに些細なことでも深掘りして言語化してきた。
その過程がないと今の僕はあり得ない、自分自身の人格を形成してきた大事なもの。それはもう宝物と言っても差し支えないのじゃないだろうか。
まあね、レンタルサーバー上のデジタルデータを宝物と言っちゃうのも変な気がするけど、実際そうなんだよな。たとえ物体がなかったとしても、自分自身が大事だと思えて愛着が湧くのならそれでいいじゃない。
そこまで大事に思う気持ちがあるからこそ、ここまで更新を止めなかったのだと思うし、どんなに時代遅れになろうともこれからも続けていくつもり。
文字通り「宝物」だとすると、やっぱり物体を伴っていた方がいいのだろうか。書籍化はかなりおこがましいとしても、きれいな紙に印刷して冊子にでもしてみるか? それもなんか違うか。
ここまでがむしゃらに書き殴ってきたけれども、よく考えてみると書くだけで終わってた。書き終わった記事と向き合う時間なんて取ったことないし、そういう意味では宝物を雑に扱ってきたのかもしれない。
だからこれからは、もう少し丁寧にこのブログを運用してみようと思った。いや、確かにこれまでも文章や写真は丁寧に準備してきたんだけど、それだけで満足せずに、過去の記事と向き合う時間を取りながら洗練させていく作業をやってみよう。
その先にはきっと、もっと楽しい何かがある。これまでもそう考えながら進んできたから、これからも考えることは同じだ。